#5




その夜、バージルの寝付きは最悪だった。
柔らかなソファに身を預けても、いっかな眠りは訪れない。
目を閉じれば瞼に浮かぶのは、泣き顔の彼女。
──使い古し、だなどと。
随分酷い言葉が出たものだ。
まだ名前さえ知らない相手なのに。

『あたしはダンテとは何でもない!!!』

そう叫ばれたときは思わず反応しそうになってしまったが、弟をよく知る者として、それだけは易々と信じる事は出来なかった。
彼女はうつくしい。
バージルをしてそう思わせるのだから、惚れっぽいダンテが何も思わない訳がない。
まして、彼女は幾夜もダンテと過ごしている。だとしたら、結果などひとつだ。
「俺を揶揄うなど、何が望みだ?」
無性に腹が立った。
いっそ確かめるなどと嘯いて、彼女を抱いてしまえば気が楽になったかもしれない。
「……下らない」
バージルは自嘲に唇を歪めた。
(そんなことをして何になる)
バージルは彼女の手当てに気を取られてソファに投げ出してあったままのコートを羽織った。
このまま此処には居たくない。
自分がいない方が、彼女も出て行きやすいだろう。
玄関ホールの扉を開ける。
漂う夜気は、まるでバージルを責めるような冷たさだった。





女とかち合わないようにと念には念を入れて、バージルは三日も家を空けた。
そんな涙ぐましい行動も虚しいものだった。
スラムを彷徨い、出くわす悪魔を狩っているときでも、片時もバージルの思考は彼女から離れてくれなかった。
馬鹿馬鹿しいと分かっているのに、自分ではどうしようもない。
気づけば、「そもそもあの女は何をしに俺の屋敷にやって来た?」と疑問が脳裏を掠める。
(あの女は俺に一体何をした?)
特に何もしていない。ただ、いくつか言葉を呟いただけだった。そしてそのどれもが他愛ないことだと言うのに。
よもや、それが魔術の呪文だったとでも?
「下らない」
このところすっかり癖になってしまった自嘲の言葉を吐き、バージルは辿り着いた館を見上げた。
何故だか知らないが気が重い。
気分は晴れないまま、玄関の扉を開けた。
途端。

「おかえりなさい」

一度聞いた、その台詞が彼の耳に届いた。
「何故……」
彼女はまだ此処にいた。
しかも、呆然としたバージルの鼻に届くのは食事の匂い。
「毎食毎食二人分用意してたのに、帰ってきてくれないから無駄になっちゃった。でも、やっと一緒に食べてもらえるね」
女は足取りも軽やかに台所へ向かう。
その薄く、頼りのない背中。認めた刹那、何かがバージルの中で爆発した。
「……出て行けと言ったはずだ!」
ガァンと愛刀を床に叩き付ける。
いとも簡単に、女はバージルの心を乱した。
苛立つ彼に、けれど彼女は怯えた様子もなく、逆に眉を聳やかした。
「嫌よ。あたしはダンテの代わりに貴方に雇ってもらうって決めたんだから」
強く、バージルを見つめる眼差し。
バージルは──バージルには、見つめ返せない。
「お前を雇う気はない」
彼には目を逸らしてそれだけ強がるのが精一杯だった。
(何故)
自分は何にこんなに戸惑っている?
「それもそっか」
彼女がはたと手を止めた。
「いきなり押しかけた上に、雇えっていう方が不躾だよね。ごめんなさい。それは謝ります。でも、見習いとしてここに置いて」
「な……」
つらつら語られ、バージルは口を挟めない。
「見習いだし、お給金はいらないから。あとこれはバージルの通帳。ダンテの口座を開いたから、この通帳は手元にどうぞ。まだ貴方が受け取ってない分の報酬も、入れておきました」
通帳を差し出し、にっこりと微笑む彼女。
「何でもするから。傍に置いて下さい」
『何でも』?
瞬時に心に浮かんだ腹黒い欲望に愕然とする。
(俺は今、何を考えた?)
──自分で自分が信じられない。

「……勝手にしろ……」

自然に口を突いた言葉は、バージル自身でも制御できない感情から生まれたものだった。
彼が投げ出した適当な言葉にも、彼女はきらめくような笑顔を向ける。
他の誰でもない、バージルに。
「ありがとう。あたしの名前は、。これからよろしくお願いします」
今までの無色で無味、そして無害だった彼の世界が、根底から揺らぎ始めていた。





がバージルの元で働き始めて、今日で一週間になる。
あの夜──が怪我をして、バージルに手当てをしてもらった、あの夜。
使い古しと酷い罵り方をされ、ダンテの恋人だと勘違いされ、弁解の余地なく一方的に会話を叩き切られたことは彼女を深く傷つけたが、それでも、はまだバージルを諦めることなど出来なかった。
むしろそれで諦められるくらいの生半可な気持ちでいたなら、ことの始め、彼を探し出すことすらしていない。こうまで直接感謝することに、彼と近づくきっかけを求めることもしなかっただろう。
真正面からぶつかって、もっと自分のことを知ってもらい、あわよくば──好きになってもらえたなら、どんなに幸福か──嫌われてしまったのなら、それはそれで仕方ない。人の感情を変えることなど、誰にも不可能なのだから。
だが、彼の勝手な勘違いで最初から関係を放棄されるのだけは許せなかった。
だからバージルから半ば強引に『勝手にしろ』という言葉を引き出したときは、は小躍りするほど嬉しかった。
彼に言われた通り、は勝手気儘に過ごしている。
無論、押し掛けて居座ったことが原因で彼に嫌われたらとは彼女とて考えないわけではない。考えないわけではないが、それでもあの孤高を好むバージルとの距離を縮めたいのならば、多少強引な手段に出るしかないような気もしている。そこは彼女自身の賭けでもあった。分が良いのか悪いのかは、まだ未知数。
けれどそれはあながち間違いではなかったようで、バージルのに対する態度は、良くも悪くも変わってはいなかった。
まるで透明人間と同居しているかのような暮らし。
は日に三度、ちゃんと二人分の食事を用意する。
彼はそれに手をつけたり、つけなかったりとまちまちだが、は特に気にしていない。
食事を摂ったとき、彼は自分の食器はちゃんと片付けている。
ダンテとは違うその性格の片鱗が見えただけでも、は心があたたかくなった。
後は空いている時間でこまめに掃除や洗濯をして、部屋を明るく保つこと。
この洋館には電話を引いていないし、特に何か看板を出している訳でもないために、バージルに直接一見で依頼して来る客は皆無に等しかったが、そういう人間が現れれば、が丁寧に話を聞いて彼に伝えた。
中にはバージルが出るまでもない依頼もあり、そんなときは彼女は自分で処理したりもした。無論そんなときでも長くは家を空けなかった。
バージルが家にいるときに自分が出掛けているなど、間抜けでもったいないことはしたくなかったからだ。
だがそもそも彼が家にいること自体が少なかった。
もしかしたら、いや、たぶんバージルもわざと家を空けるようにしているのだろう。
その考えに至ることはとてもの気持ちを寂しくさせたが、だからこそバージルが家に戻って来たときは必ず笑顔で出迎えた。
疲れて帰って来た家が、明るく暖かく保たれていることを嫌う人はいないはず。
そしてほとんど一方通行だったが、は諦めないでバージルに話し掛け続けた。
バージルは彼女の目を見て話をしない。
けれど時折貰える返事が、たとえ二語三語と短いものであったとしても、彼女の心を満たしてくれた。
そうこうしているうちに何週間か過ぎ去り──が勝手に選んで住み着いた部屋、そのサイドテーブルに、いつの間に彼が置いたものやら、100ドル紙幣が積み重ねられていた。
(……お給料?)
それにしてはあまりに多い額。
聞いてみようと部屋を出ると、ダイニングでピッチャー片手にミネラルウォーターを飲んでいるバージルを見かけた。いつもよりラフな服装。
今日は出掛ける用事がないのかもしれない。
「バージル」
呼ぶと、顔の傾きだけでその先を促す。
視線もくれないか、とは内心苦笑する。
慣れては来たが、やはり寂しい。
それはともかく。
「これ……こんなに貰えないよ」
紙幣を手にバージルの隣へ立つ。
彼がピッチャーを静かにテーブルに置いた。
は何となくそのピッチャーに触れてみた。ガラスが彼の温もりを残している気さえした。
(——我ながら、重症)
そういえば、こんなにバージルに近づいたのは久しぶりだった。
喜んだのも束の間、ぷいとバージルは離れていこうとする。
「人を雇ったことなど無いから、基準も分からん」
思いがけず可愛いことを言われて、考えなしには彼の腕を引いてしまった。
「前は1日100ドルだったよ」
前、という部分だけバージルが視線を揺らした。
(Oops !)
言ってしまってから後悔する。
ダンテ関連のことは、彼には禁物だった。いい方へ話が転んだことがない。
「では、1日50だ」
バージルが、そっと腕を払った。
50ドル。
ダンテの半分か。
その裏に隠された微妙な感情に、何故だか微笑ましくなる。
笑みに気付いたのか、バージルが僅かに振り返った。
「嫌なら出て行け」
どうの気持ちを歪曲したものか。
吐き出すように言った彼の言葉に、笑みは苦いものに変わる。
「違うよ。そういう意味で笑ったんじゃないの。……えっと、1日50ドルだから……」
日付分だけ紙幣を数えると、残りをバージルに差し出す。
「はい。貰いすぎた分です」
バージルが、身体ごと向き直った。
自然に視線が合う。
心臓がドクンと大きな音を立てた。
こんな間近で、ゆっくりと彼の瞳を見たことなどない。宇宙の果てはこんな色をしているのかもしれない、そんなことを思わせるほど静かな青。
吸い込まれそうで、は瞬きさえ出来なくなる。
どれだけ見つめ合っていたのだろう。
随分長いように感じたが、それはの都合のいい思い込みで、実際は数瞬だったのだろう。
やがてバージルが目を逸らした。
「……それはもうお前のものだ。返さなくていい」



突然のボーナスで、はテーブルクロスとカーテンを買った。
そしてそれらを勝手に掛け替えた。
テーブルクロスには、ガラスのピッチャーを引き立てる繊細なアンティークのレースを。
リビングに飾るカーテンは、バージルの銀の髪を引き立てる濃紺を。
真新しい布たちは館にまるで最初からあったかのように馴染み、それでいて控えめに部屋を彩った。