例えば、シーツをぱりっとアイロン掛けする。
テーブルクロスのほつれを繕ったり、午後三時になったらお茶を淹れたり。彼女の本来の役目はそんなこと。仕事は次から次へとたくさんあるから忙しい。
けれど。
「起こしてくれって頼んだろー……」
半裸でぼさぼさの銀髪をわしゃわしゃ乱しながら歩いてくる男に「きゃあああ」と悲鳴を上げながらタオルを投げつけたり、
「コーヒーはまだか?」
青い瞳を細めた不機嫌な男に「ご、ごめんなさい」とぺこぺこ謝りながらキッチンに走ったり。
この家では何だかすこし、忙しさの意味が違う。




Toast!




銀の髪に青い瞳の双子に雇われる、少し前のこと。
は失業して職を探していた。
失業というと厳しい響きだが、実際は、住み込みで働いていたパン屋が店を閉じたのだ。
オーナーの老夫婦は数種類の素朴なパンだけを日に何度も焼いて生計を立てていたのだが、日々ひどくなる腰痛と関節の痛みに、どうしても店を続けていくことが出来なくなってしまった。
人のいい夫妻は、よく働いて気立てもいいに店を丸ごと譲ると言ってくれたのだが、さすがに夫婦抜きの自分一人では切り盛りが出来ないということで、その申し出はやんわりと断った。
そういうわけで、は仕事と住居をいっぺんに失ってしまったのだった。
が、幸い住み込みの仕事の候補はすぐに見つかった。
さっそく電話連絡をしたら「今夜にも面接に来て欲しい」ということで──よほど人手が足りないのだろうかと首を捻りつつ、もちろんはお願いしたのだった。



面接の夜。
秋の肌寒い風が、辺りの砂埃を巻き上げている。
「住所はここで合ってるはずなんだけど……」
電話で聞いた連絡先のメモを手に、はきょろきょろ視線を迷わせた。
裏通りであるこの周辺は建物からして少なく、急ぎの人手が必要なほど賑わっているようには見えない。
しずかさを物語るように、頭上にはぽっかり大きい月が浮かんでいる。
「いい天気」
うっとりと月を見上げ、は目を疑った。
「え!?」
巨大な影が夜空に舞っている。
鳥かと思ったが、それにしてはやけに巨大。近づいてくる影は、ぞっとするような血の色の両翼。
「……な、何っ」
足が竦んだ。
これまで目にしたこともない生き物、どう見ても友好的ではない。
暗闇に血の色の鳥の目が不穏に底光りした。羽で斜めに制御をかけ、こちらに方向を変える。──気付かれている!
「っ」
喉から叫ぶ寸前、は後ろから赤い翼に飲み込まれた。
(仲間が)
絡めとられた感触は、革のよう。人肌のようにあたたかい。
すぐ近くで、羽ばたく音も聞こえる。
「っ、やだっ」
何とか全力でそれを撥ね退けようとした刹那、くぐもった雷鳴のようなものが響いた。
続いて、塞がれた視界が前触れもなくぺろんと剥げる。そして、
「間一髪」
光る不気味な目が──ではなく、綺麗な青い目が、を覗いていた。ちゃんと人間の男、それも美形の。
「ちょっとだけ我慢してろよ!」
問答無用で、再び視界が赤く包み込まれた。音も気配も遠くなる。
ときどき身体ごと方向転換を強いられる以外、はしっかり男に抱えられたまま。
布の向こうでは籠もった銃声や空気を切り裂くような耳障りな悲鳴が繰り返され、その都度お腹に振動が伝わってくる。
非現実的な状況も怖いが、それよりも現状を把握出来ていない方が怖い。
は呼吸をするのも忘れて、何とか外の様子を窺えないかと耳をそばだてた。
やがて唐突に物音が止む。
「一丁上がり」
やはり前触れもなく、赤い布が取り払われた。新鮮な空気がひんやりと頬に触れる。
おっかなびっくり辺りを見回してみると、不気味な鳥の姿は跡形もなく消えていた。
ただ、隣には、赤いコートの若い男がいる。
「怪我はないよな?耳もやられてないよな?」
男が忙しなくの点検を始めた。手がにゅっと伸びて来るのを見て、は反射的に身を竦めた。
「だ、大丈夫ですっ」
「良かった」
男はにっと微笑み、が遠ざかった分も距離を詰めて頭を撫でる。悪意が感じられない動き。彼は自分を助けてくれたのだろう。鼻にこびりつく嗅ぎ慣れない煙の匂いは、彼の銃のものに違いない。
はそっと彼から離れて、改めて青い瞳を見上げた。
「ありがとうございます。よく分からないけど、助かりまし」
言葉尻を言い終わる寸前、の真横を何かが凄まじい速度で突っ切った。腕ほどもある氷柱のような──
「ええ!?」
思わず氷柱の行方を目で追い掛けると、まだ残っていたのか、赤い鳥が昆虫採集のコレクションのように岩肌に磔になっていた。
悪趣味な見た目のそれも一瞬のことで、鳥はざらりと砂と化す。
「加勢するならもっと早く来いよ」
の横の男が、暗闇に声を投げた。
「邪魔するのも無粋かと思ったんでな」
気配もなく闇を割って現れたのは、青い衣服の男。ちらとを見やる。
「こんな夜中に一人で出歩くとは、命知らずな女だ」
突如現れた男に素気無く言われて、さすがのもかちんと来た。
「私だって、用事がなければ出歩いたりしません!」
「用事?」
赤い男が瞬きをした。
そちらに向き直り、はきっと唇を引き結んで頷く。そうだ、自分はふらふら散歩していたわけではない。
「はい。この辺りのお家で、メイドの採用面接に呼ばれていて」
謎の男たちは、互いに顔を見合わせた。
「……それ、うちだ」
「……え?」
がぱちぱち瞬きする間に、青い男は溜め息をふたつついた。
「だから面接は明日まで待てと言ったろうが」
赤い男がそれに食ってかかる。
「早いとこメイド雇わねぇと、うちの健康的な生活はもう破綻寸前だったじゃねぇか!」
「誰のせいだと思っている?部屋を汚すのは、食器を片づけないのは、誰だ?俺か?」
「仕事がなけりゃ引きこもって買い出しにも出ないのは誰だ?あんただろ!?」
「……ちょっと待って下さい!」
目が回りそうな舌戦に、は何とかかんとか割って入った。
「あの、あなたたちがトニー&ギルバ?」
ぴたりと喧嘩を止めた二人に、バッグから紙を取り出す。
『住み込みのメイド急募 Tony & Gilver』……文面に目を走らせ、青い方の手がぶるぶる震えた。
「貴様、こんなふざけた雇用主名で募集をかけたのか?」
「本名じゃ色々ヤバいかと思ってさ。って、突っ込むとこはそこかよ」
またも話は逸れかけている。が、どうやらこの二人がの探していた家主らしい。
「それじゃ、本当に」
「面接先はうちの事務所。この近くだ」
ちょうどよかったな。赤い男はにっこり笑った。



男たちは最初に現れた赤い方がダンテ、後から来た方がバージルと名乗った。
「本当は隠しておくつもりだったけど……オレ達は、さっきみたいなちょっとばかり物騒な仕事を請け負ってる」
「あ……はい」
は背筋を伸ばした。
に頼みたいのは、家事とか留守番とかなんだ。もちろん、事務所は安全だぜ」
「そう言い切るのも微妙な線ではあるがな」
「せっかく来てくれた子を怖がらせてどうすんだよ」
そんな会話をしつつ通された事務所は、確かに早急に人手が必要なほど雑多な物で溢れていて……平たく言えば、汚い。
「片付け甲斐がありそうですね」
「だろ」
「皮肉だろうが、恥を知れ」
「い、いえ。私はメイドですし、本当に心からそう思っただけで」
の言葉に、否定されたバージルが不愉快そうに手を組んだ。
「まだ雇うと決めた訳ではない」
「はあ?かっこつけてる場合かよ!」
「条件とか色々あるだろう」
「そんなのどうでもいいよ、うちで働いてくれりゃ」
かわいいし。
ぼそっと付け足された一言に、バージルは一層目尻を吊り上げた。
、と言ったな。得意な仕事は?」
いきなり向けられた厳しい視線に、はこちんと固まりかけた。
「あ、はい、ええと」
とりあえず、それは想定内の質問だ。用意した内容をはっきり伝える。
「今までパン屋で働いていたので、炊事が得意です」
「パン!?」
ダンテがすかさず反応した。
「ピザは?焼けるか?」
「ええ。そんな本格的なものではないですけど、家庭で焼くようなピザでしたら」
こくりと頷くと、ダンテは懇願するような眼差しを横に向けた。
「なー、もう尋問はやめて雇おうぜ」
「尋問ではない」
バージルはまだまだまだまだ質問があったようだが、横からの刺さるような視線と、真向かいの不安に揺れる弱い視線の前に、手を解いてテーブルに置いた。
「とりあえず……」
試用期間、とバージルは単語を呟いた。
「こちらとしても、長期で雇いたいと考えている。互いにやっていけるかどうか、まずは試用期間だ」
「試用期間……」
も単語を呟いた。
一応はOKらしい。
「あ、ありがとうございます!」
「そんなややこしいことは忘れていいぜ。よろしくな!」
ダンテが屈託なく握手を求める。
「これからよろしくお願いします」
快く応じながらも、
(正式に採用されるよう、頑張らなくちゃ)
『試用期間』に気を引き締めていた。





記念すべき初日は、昼に事務所に入る予定になっていた。
『試用期間』がどれだけ続くかは分からないが、とりあえず必要そうな物を鞄に詰め込んだら、かなりの重さになってしまった。
傘のないメリー・ポピンズ姿で荷物を抱え、事務所のドアを叩く。
「遅いぞー……」
中から、何だか元気のないダンテが現れた。
「待ちくたびれて、もう腹ペコだ」
「え、あの」
はおろおろと腕時計に目を落とす。到着時間は、約束より早いくらいだ。
「気にするな、時間通りだ」
ダンテの背後からバージルも姿を覗かせた。
「あ、それなら良かったです。時間を間違えたかと思いました」
ぺこぺこしながら、開かれた玄関から入る。
ダンテがさりげなくの鞄を取って運んだ。
「ありがとうございます。荷物を置いて、すぐにお昼を用意しますね」
「うん」
待ち侘びた食事の時間が近いことに、ダンテはやっと明るい表情になった。
ひょいと肩を竦め、に耳打ちする。
「すました顔してるけど、バージルも腹ペコだから」
朝からここの片付けしてたんだ。
付け足された一言と、後ろのバージルの疲れた表情で、の緊張がちょっとだけ解れた。



自室にあてられた部屋に荷物を置くだけ置いて、は早速お昼の支度に取り掛かった。
大きな紙袋から最初に取り出したのは、昨夜、パン屋の夫婦に「新しい仕事が見つかりました」と挨拶をしたときにお祝いで貰ったパン三種。これをそれぞれスライスする。
次に、タッパーに入れて持って来たポーチドエッグを野菜の千切りに乗せて、巣ごもり風に仕立てる。
水筒に詰めてきた裏ごしかぼちゃの冷製スープを皿に盛りつけ、生クリームとパセリで彩りを添える。
最後に、飾り切りした果物を小皿に見た目よく移しかえれば、火を使わない手軽な食事の完成。
食卓に運んでいると、ダンテがやってきた。
「うーわー!初日からこんなすげぇの?」
「次のお食事からは、ちゃんと温かいお料理出しますね」
「これ、冷たいスープなのか。……うまい!」
お行儀悪く指でスープをぺろりとして、その味に舌鼓を打つ。
「お前にかかるとせっかくの料理も形無しだな」
後から現れたバージルは、ダンテのテーブルマナーに一瞥をくれて席についた。
真向かう形で座ったバージルに、ダンテは眉を顰める。
「何であんたがそこに座る?」
「食事がセットされているからだが」
「……は?」
話を振られたは、ふるふると首を振った。
「私はもう済ませて来ましたので……」
「えー?」
つまんねぇの、とダンテは頬杖をつく。
「でも、まだ入るだろ?一緒に食おうぜ」
自分の席をに無理やり譲る。仕方ないので、もおずおずと席についた。
「このパン……」
バージルがレーズンのパンをつまむ。
ダンテは胡桃が入った方をぱくりと食べた。
「たまにレディが差し入れてくれるやつと同じ味だな」
「あ、お店をご存知でしたか?もう閉めちゃったんですけど」
「あー、だから最近パン持って来てくれなくなってたのか。閉店て、もったいねぇな。でもまあ、が作れるのか」
ダンテは既に三枚目の胡桃パンに手を伸ばしている。
「レーズンのも、よかったら」
皿を寄せたに、ダンテは気まずそうに笑った。
「嬉しいんだけどさ、」
「レーズンが苦手だとはっきり言え」
前方からぴしゃりと鋭い突っ込みが入る。
「あ。そうでしたか」
「……そうなんだ。バージルは大好物らしいけどな」
逃げ場がなくなったダンテはうなだれ気味に胡桃の方を引き寄せ、レーズンはバージルに押しやった。



初日は慣れないながらも、滞りなく順調だった。
夕食の後片付けもすっかり終わって、の今日の仕事もラストスパート。明日のためのパン作りだ。
(パン、気に入ってくれたみたいでよかった)
それも自分の元いた店の味を知っていてくれたのは、素直に嬉しいことだ。
ダンテは胡桃ブレッドが好き、バージルはレーズンブレッドが好き──反芻しながらタネを捏ねる。
まだ小さいかたまりでしかない生地も、ラップをかけて時間を置けばふくふく膨らむ。この後にはオーブンで焼くという大事な作業が待っているのだけれど、生地を発酵させている過程がいちばん、パンを作っているという気がする。
時折ボウルの様子を確認しながら、は他の細かい仕事を進めていった。


やはり家事をしてもらえると、かなり楽だ。
そんなことを考えながらシャワーを浴びて、濡れた髪をタオルで拭きながら自室へ戻る途中、バージルはまだキッチンが明るいことに気付いた。
それだけでなく何かが焼ける香ばしい匂い、耳を澄ませば包丁を使う音さえする。
か)
時計を見上げ、バージルはふっと嘆息した。
とうに休んでいると思ったのに。
(試用期間などと言わなければよかった)
ダンテの手前、軽々しく採用とは言えなかっただけの単なる言葉の綾。何も休息を削ってまで無理をさせたいわけではない。
「……?」
甲で壁をノックしてから彼女に近付く。
はまだエプロン姿だった。
「あ……えっと」
は何故かひどく困った顔をして、何かを探るように見つめてくる。
(……ああ)
その表情の意味は、バージルもよく知るところ。彼女のため、バージルは前髪をかきあげてみせた。
「あ、バージルさん」
区別がついてホッとしたに歩み寄る。ふわっとパンの香りがつよくなった。
「明日の分です」
バージルが口を開く前に、が切り出した。
「おひとつ、いかがですか?」
焼きたてのレーズンブレッド。
「いや……」
「そうですよね」
勧めた皿をバージルから遠ざけ、はちょっと気まずそうに肩を竦めた。
こちらを向いたちいさい背中に、バージルは息をつく。
「貰って行く」
「あ」
が喜色をにじませて振り返った。
逆にバージルはキッチンから出ようと背を向ける。
手にしたパンは焼きたてで、まだ熱い。これでは……まるでいちばん美味しいところを狙って訪れたようだ。
「もう充分だから、早く休め」
照れくさくなって挨拶もそこそこに、バージルはキッチンを後にした。



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