『こっちに遊びに来たら、どこへ行きたい?』
『夏だし、水族館!あ、でもロデオドライブとかラスベガスとかゴールデンゲートブリッジとかも』
『おーい、西は西でもそりゃ相当広範囲だぜ?』
『そうなの?……あ、ほんとだ……』
『その中だったら、特に何を見たい?』
『うーん』
『遠慮すんなよ。どこでも付き合うから』
『……。』
?』
『……ダンテとなら、どこでもいい……』



magic place




我ながら、よく言えたものだと思う。『ダンテとならどこでもいい』。甘い表現へのハードルが低いのは英語の魔力か。
日本を発つ前に交わした会話の内容と、嬉しそうに笑って電話を切った彼を思い出し、は一人こっそりと赤面した。
(あああ今さら恥ずかしい!)
ぶんぶんと顔を振ると、隣の席の女性がびくりと振り返った。空港のタグがぶら下がったままののスーツケースに目を留めると、彼女は今度は心配そうに首を傾げた。
「大丈夫?何か困ったこと?」
「あ、いいえ。大丈夫です、ありがとう」
縺れる舌で何とか返事して、はにっこりと笑みを返した。
そうだ、浮かれてばかりもいられない。ここはもうアメリカなのだ。
(しっかりしないと)
せっかく気を引き締めたをからかうように、スーツケースが手元を離れ、ごろごろと通路を後ろへ逃げて行った。
「あ」
慌てて引き寄せる。
が乗っているバスの運転手は、先程からちょっとブレーキングが荒い。いや、もしかしたらこれがこちらでは普通なのかもしれないが。
(日本じゃないんだもんなぁ)
一人で移動していることにちょっと感動する。
ダンテは空港まで迎えに来ると、ごく当然のことのように言ってくれた。
しかしはそれを断った。
(いつまでも甘えてばっかりじゃ、ね)
ダンテとのこの先の未来を考えるなら、いつまでもただの観光客気分ではよろしくない──早く、いろいろ一人で出来るようにならなければ。
それはとても努力しがいがあることだ。
埃で曇る窓ガラス越しに、見慣れないかたちの木々の鮮やかな緑が揺れている。よくそよいでいるのを見れば、外はいい風が吹いているのだろう。
空港に降り立った瞬間から歓迎の風に手荒く髪を撫でられて、鬱陶しくかきあげれば首筋にはむっと熱い陽射しを感じた。まだまだ夏の気候だ。
エアコンが使われていないこのバスに乗り込んだ時は暑くて具合が悪くなりそうな気がしたが、走り出してみればところどころ開いた窓から風が流れ、それがとても心地良い。
(相席した人も優しいし)
旅の滑り出しとしては、まず順調ではないか。はにこりと目元を緩めた。
今回の旅費のためにこつこつとお金を貯め、大学が夏休みに入ってからは一心不乱に働いた。ようやく往復の飛行機代プラスアルファも貯まって、ダンテに『会いに行くよ!』と連絡して──
このバスを降りた後はダンテに会える。彼はもう、すぐそこにいる。『待ってるよ』そう言って電話越しにキスをくれたダンテに、もうすぐ会えるのだ。
ちょっと潤んだ目をばしばし瞬いて誤魔化すように外を眺め……の息が一瞬詰まった。
今、道路の標識に『Camel St.』と書かれていなかったか。
「あのう!」
隣で静かに本を読んでいる女性に声を掛ける。
「ここって、『Camel street』ですか?そこで降りなくちゃいけなくて!」
「ええ。『Karmel street』よ。ちょうど他にも誰か降りるみたいだし、もうすぐバス停に止まるわ」
「ありがとうございます!」
慌ててスーツケースを引き、立ち上がる。
女性の言った通り、すぐにバスはすーっと道路脇に停車した。
ドライバーは荒い運転をしていた様子からは意外なほど優しく、荷物の重さに降り口で苦戦しているに気付くと、身軽にシートベルトを外し席を離れて手を貸してくれた。
何とかかんとかスーツケースを地面に下ろし、バスの窓を見上げれば、さっきまで並んで座っていた女性がこちらに手を振ってくれていた。
「ありがとう!」
は笑顔で大きく手を振り返した。ここまで本当に順調だ。
やがてバスは真っ黒い煙を残して走り去った。
それを見送り、は意気揚々と顔を上げる。
「さて」
『Camel St.のバス停で降りたら、道路の向こうに大きいスーパーが見えるから。そこの電話ボックス前で待ち合わせるといいよ』親友はそう言って、メールで地図を送ってくれた。
プリントアウトしてきた地図は少々画像が荒くジャギジャギで見難いが、スーパーと思われる位置には“D”と手書きの赤い文字でマークが付けられている。ご丁寧にもハートで囲まれたその文字を指でひと撫でして、地図を折り畳む。それをポケットに仕舞いこみ、は道路の向こう側を見た。
「……スーパー?」
どう見てもスーパーには見えない、石の門がどんと構えられた建物ならそこにある。
近づいて、門に刻まれた文字を読む。
「……City Hall……?」
ぞーっと寒気が這い上がって来た。
恐る恐る、交差点の標識を探してみれば。
「Karmel street……」
何度頭から読み直しても、当たり前だが標識の文字は変わらない。
はがくがくする手で地図をもう一度広げた。



本来の予定なら、はとっくにこの家に到着して、今頃みんなでのんびり寛いでいるはずだった。
それがまだ彼女からは何の連絡も入って来ない。
フライトの遅れではないことは、もうが調べて分かっていた。……とすると、はどこかで迷子になっているとしか考えられない。
「だから空港まで迎えに行けと言ったんだ」
ソファに座り、バージルは腕を組んだ。
逆にダンテは勢いよく立ち上がる。
「オレだって何度もそう言ったさ!だけどあいつが」
「自力で来る練習したいって言ったんだよね」
訳知り顔でが二人にコーヒーを出した。
バージルは溜め息をついてコーヒーに手を伸ばす。
「……それは分からないでもないがな」
は偉い。
だいたい普段からに散々「一人で公共の交通機関を使う練習をしろ」と言っている以上、バージルはの努力にものを言える立場にない。
だがやはり、には時期尚早だったのではないか。
今は人を心配する側に回っている彼の伴侶も、以前に一人でアメリカに帰って来た際にバスの中で乗り過ごし、危うく酷い目に遭うところだったこともあるのだ。
(あの時は本当に生きた心地がしなかった)
思い出すだけで心臓がぎいっと縮むよう。灰色の感情をバージルはコーヒーで飲み込んだ。
だからこそ、今はダンテが相当に厳しい状況にあるのが分かる。
コーヒーを勧めてやるかと横を見たが、
「迎えに行く!」
ダンテはカップに目もくれず、ただ苛々と足を踏み変えた。
「何処へ行くと言うんだ?スーパーには一時間待っても来なかったんだろう」
「もう一度スーパーに行って、あの辺を回ってみる」
の携帯は?」
バージルの視線を受け、はもう100回は試みたことをもう一度試す。
「だめ。まだ通じない……」
「電源を切ったまま忘れているんだな」
「行って来る!」
ここで心配だ何だと喋っていてもどうにもならない。少しでも動いていた方がマシだ。ダンテは玄関へ飛び出した。
バージルも立ち上がる。
「車は」
「オレはバイクが動きやすい」
「ならば俺が車で探す」
颯爽と動き出す。協力さえすれば、彼ら双子ほど心強いコンビはいない。
焦るばかりだった気持ちが少しだけ落ち着き、も自分に出来ることを見つけた。
「私は家の周りをうろうろしてみる。うちに電話くるかもしれないし、何かあったら連絡するね」
「分かった」「分かった」
同じ返事がばらばらの方角から届いた。
二人を見送ると、は電池の切れかけた携帯を充電コードに繋ぎ、それからもう一度の番号を呼び出した。



そのころは、地図を手に必死にスーパーに向かって歩いていた。
幸い間違えたバス停も地図に載っていたので、また標識の読み間違いをするなどしなければ、何とか軌道修正できそうだ。
コンクリートの道路はじりじり熱い。風の心地よさを楽しむ余裕はもうなかった。
道すがら自販機でペットボトルの水を買って、水分補給しながらどんどん歩く。何か目印がある度に立ち止まり、地図と照らし合わせる。
「あれは?」
風に煽られている錆びた看板。ガソリンスタンドと書いてある。
建物まではっきり見えたところで、その中ほどに置かれた電話ボックスに目が留まった。これまただいぶ古くなった張り紙が掠れた文字で『OUT OF ORDER』と告げている。
(使えないのか……)
何となく残念に思った瞬間、
「そうだ!」
今更ながら、携帯電話の存在を思い出した。飛行機内で電源を切ってから、今の今まで本当に忘れていた。
慌てて取り出し、電源を入れる。いつもなら気にならない起動時間も今はひたすらもどかしい。
ようやく起動が終わり、無事に電波のアンテナが1本立ったところで、ダンテにコールする。しかし、しばらく呼び出しても電話は通じなかった。
「私のこと探してくれてて、それどころじゃないのかも……」
申し訳なさに、胸が痛い。
今度はの家電はいくつだったっけと電話帳を検索する。名前を探りあてたところで、急に画面が切り替わった。
あれ?と思う間もなく着信音が鳴り響き、今まさに電話を掛けようとしていた相手の名前が目に飛び込んで来た。慌てて通話ボタンを押す。
「も、もしもしっ!」
『やっと繋がったー……』
電話の向こうの親友は、ひどく疲れた声をしていた。



発信履歴はとうの昔にで埋め尽くされている。
今度こそはと力を込めて発信ボタンを押し、『お掛けになった電話は……』のアナウンスではなく無事に呼び出し音が流れたときは、は逆に驚いてしまった。
何コールも待たず、プッと通話が開始される。
『も、もしもしっ!』
飛び込んで来たそれは間違いなく親友の声だった。
「やっと繋がったー……」
肝心な時に携帯の電源を入れていないに呆れながらも、無事に連絡がついたことではただただ安心してほーっと胸を撫で下ろした。
『ごめん、電源入れるの忘れてたんだ……』
いつもの五分の一くらいの声量で、の答えが耳に届いた。
は、この感じ誰かに似てると思った。誰かに。
(私だ)
バージルに怒られている時の自分。
「それに、どこかで迷ってる……でしょ?今、ダンテさんもバージルもを探しに行ってるから」
『う。ごめん……』
の声が、もう聞こえるぎりぎりまでミュートした。いつもよりしゃっきり頼もしい彼女だが、見知らぬ土地で迷子になったら心挫けそうにもなるだろう。気持ちは痛いほどよく分かる。
それだけでなく、今理解したのは、心配する側の気持ち。
(私を心配するバージルはいつもこんな気持ちだったんだなぁ)
しっかり者のにすらこんなに心配してしまうのだから、普段からぽやぽやしているは——
(も、もっとしっかりしないといけないな)
バージルの胃に穴が開く前に、もうすこし慎重にならなくては。
『ごめんー……』
繰り返すに、はそっと微笑んだ。
今日のことであとひとつ分かったのは、しゅんと萎れる相手には、もうそれ以上何も言えなくなってしまうこと。逆に何だか頭をよしよし甘やかしたくなる気分。
脳裏にこんな時のバージルの顔が浮かんで、私も今そんな感じなんだろうなとは可笑しくなった。
「私はもういいけど、あとでダンテさんにはすごく怒られると思うよ。何か法外な要求されるかもね」
『法外な要求?』
「うそうそ。ダンテさんは優しいから大丈夫」
これがバージルとの陥った状況だったら……考えたくもない。はぞっとしない考えを振り払った。
「バス、乗り間違えた?」
『降りるとこを間違えた……』
「じゃあ、路線は合ってるんだね」
『多分……』
「よかった!そんなに大変なことにはなってないよ」
手元のバスブックをぱらぱら捲る。
不幸中の幸いと言うべきか、が乗った路線は、空港からほぼ一本道。
「で、今はどこにいるの?」
『ええと、目印は……うーんと』
「通りの名前でもいいよ」
『ちょっと待って』
が移動する音が聞こえた。その雑音からすると、外の風は結構強いようだ。
『Kingston、て分かる?あとここから見えるのは、ガソリンスタンドとリカーショップ』
「あー、分かった、あそこだ!」
の居る地点はすぐに目星がついた。これも普段バージルから地図の読み方・バスの乗り方など交通全般についてみっちり教え込まれた賜物だろう。
「じゃあ、そこに居てね。ダンテさんにお迎え行ってもらうから」
『ありがとう〜…』
親友の声は涙混じりだ。
「もうすぐダンテさんに会えるんだから。元気だして!」
「うん。ありがとう」
「迎えが来るまで油断しないで、しっかり気を引き締めててね!」
普段自分がバージルから言われていることを言い、をもう一度励ます。
『ねえ、この辺って電波弱いのかな。の声が途切れちゃう』
「ああ、大通りでもないし、そうかも。電池心配だったら、電源切っておいた方がいいかも」
『わかった』
「それじゃ、ダンテさんに連絡するね!」
そして通話を切る。
「よかったぁ……」
安堵にその場にへたへたと座り込みそうになったが、その前に早くダンテに連絡しなければいけない。
「早く早く」
焦るあまりに違うボタンを押してしまいつつ、はダンテを呼び出した。
が、しばらく待っても彼は応えない。
「んー。信号とかかな」
すこし待って、もう一回。
腰に手を当てながら電話に集中したとき、儚い音が耳に飛び込んで来た。
(Prrrrrr ...)
「え!?」
救いの蜘蛛の糸のその先は、あまりにの近くにありすぎた。
静まり返った部屋の中、そのソファのクッションの陰。唖然とするの視線の先で、赤い携帯はぶるぶる鳴動しながら主を呼び続けている。
「だ、ダンテさんてば忘れてっちゃったの!?」
確かに物凄く慌ててはいた。だが、それにしても、何とクリティカルな忘れ物!
「仕方ない……」
可哀想だけれど、の彼氏よりも数段怖い人物を送り込むしか手段がなくなってしまったようだ。
「ごめん、
何となく謝りたい気分で、はバージルに電話を掛けた。しかし。
Prr, prr, prr ...
「ええっ!?」
静まり返った部屋の中、愕然とするの横のテーブルで、青い携帯はぶるぶる鳴動しながら主を呼び続けている……